日日是好日

なんとなくでいいじゃん

個人的な小説論

表現手法としてのエンタメ

 

ミレニアル世代は生まれた時から既にエンタメがありふれてる時代です。

 

紀元前から続く、小説。

1920~30年代に発展した映画産業。

1950年代に手塚治虫によって手法化された、漫画。 

1970~1990年代における、アニメの最盛期。

今はゲーム産業の過渡期でしょうか。

 

そして、これらのエンタメ全ての共通点は、物語を持つことです。

ここで言う物語は、作者の思想とでもいいましょうか。

つまり、エンタメは、物語を表現する手法・ツールとして発展してきたわけです。

そんなわけで、一番歴史が古く、自由度の高い小説は、他の表現手法に影響を与え、また影響を与えられて今に至ります。

 

小説の仕事

 

小説も漫画も、進化の結果、なろう系、恋愛、ミステリー、SF、などなど、たくさんジャンルが分かれました。

色んな種類があるんだなぁと、難しく考え過ぎてしまいますが、どのジャンルも、本質的には「主人公が成長する過程を追う」ことで物語が成り立っています。

「作者の思想を反映するために、主人公が成長する過程に種類を富ませた」わけです。

 

その点、”小説”は表現における進化の過程で、能力として「主人公の成長」を獲得したので、別に強制的に主人公が成長しなきゃならないわけではないです。

安部公房とかカフカとか、最初から主人公をボコスカにする気しかないパターンですね。

 

では、小説以外はどうか。

アニメ、映画って、小説、漫画を元に作ってますよね。
小説、漫画、映画、アニメの大まかな流れは全て、「主人公が成長する過程を投影する」ことです。ここは変わりません。

アニメでは、キャラクタの動きと音楽を使って、短い尺で登場人物の行動理由をわかりやすく伝えないといけません。だから必然的に単純明快な作品が多いのでしょう。

さらに、瞬間を楽しむことができる、音楽やゲームはどうでしょうか。何十時間という時間をかけて受け手に内容を楽しませる場合は、物語が必須になってきます。

音楽なら歌劇や交響曲、ゲームなら「メタルギアソリッドシリーズ」、「FF」、「GTA」とかですかね。

総じて、ここ50年くらいで、エンタメも進化に富んだので、その結果小説にも影響が出たのでしょう。

 

※勝手な物語の依存度イメージ

小説 > 漫画 > アニメ > 映画 >>> ゲーム

こう見ると、物語の依存度が低いほど、技術が多様化してますね。

音楽は脳で言語化する必要はないので、音楽が絡めば絡むほど、表現手法に物語が依存する必要がなくなるのと思ってます。

(表現手法を全て時間関数とすると、小説は「物語ベクトル」、漫画は「物語ベクトル」+「絵ベクトル」、アニメ・映画は「物語ベクトル」+「絵ベクトル」+「音楽ベクトル」で成り立っていると考えてます。)

 

そのため、自分は物語のことを「意識の境界面」と勝手に読んでいます。 

 

 

で、先述のとおり、創り手はいかに自分の思想を主人公の成長に当てはめられるか、が腕の見せ所です。その結果、受取手が主人公or脇役に自分を投影させられるから、作品にどっぷり浸かるんですね。

谷口悟朗のアニメはわかりやすくて面白いですね。

登場人物がブレずに成長して、その過程が受取手に伝わりさえすれば、後は勝手に面白くなります。


この点、「銀魂」「このすば」「ポプテピ」の、メタギャグ的面白さは、2次創作である以上、くどいほどに見せられると興醒めしてしまいますので、本質的な面白さではないです。それを作者がわかっているから、「銀魂」や「このすば」にも、一応ストーリーがあります。

 

創り手として読者の需要を満たすために


村上春樹の作品が中高生に受ける理由を考えてみました。
基本的に村上春樹の作品の主人公は、モラトリアムを謳歌していて、ぐだぐだ生活するわけですが、誰も彼の行いを咎めません。

主人公は成長してるのかしてないのかよくわからないまま、過ごしている。でも、行動して考えているので、明らかに成長はしている。


中高生は、多くの場合自由ですが、その中で自分を探さないといけません。
しかも、既に大きくなっている回りの大人ですら自分を持っていないわけです。この時点で中高生生活の間に答えが出ないことは明白です。

それが、多くの人に村上春樹が読まれる理由じゃないでしょうか。

※みんな、もう村上春樹が全部狙ってやってるのをわかってるんじゃないかな。


1950~
川端康成は「日本文化の持つ淡さ」に感動して。

三島由紀夫は「大義を言い訳にした生き方」を通じて。

アニメや漫画がなかった時代の、娯楽、エンタメを提供しました。

 

1980年~

村上春樹は”中高生”・”まだ中高生から抜け出せない人”の居場所を提供してあげています。

1990年~

東野圭吾はミステリー作品を通じて、映画的に小説を作ろうとしています。

 


こうやって見ていくと、自分にも役割みたいなものが作れるのかな、と思えてきますね。


個人的には、村上春樹に近い、等身大の世界を提供することが、私の仕事の一部になりそうかなと思ってます。母性の一つの形みたいなイメージかな。
小説を書き続けるとしたら、とりあえず、しばらくの間は崩れることのない寝床を提供することだと思います。だから、今はできるだけ頑丈な安住の地を見つけておきたいですね。

そんでもって、ペシミスティックに浸かりすぎた人のお尻を、冗談めかしてちょんちょんとつついてあげることが僕にできることなのではないかな、と気づきました。

まだ、書いてみたことないのでわかりません。すみません。

 

 

[おまけ]

物語を面白くするために

 

今回の作品を作ってみて、自分の知識不足でテーマを決めてしまったため、大失敗だとわかったのです。まずは、得意分野を持つことが大事ですね。そこから話が広がります。

というのも、受取手が作品と向き合う時間を確保してあげることが、創り手の一番優先しないといけない仕事だからです。

 

終わり方に含みを持たせる → もう一度読もうという気を起こさせるために

的確なメタファーを思想の窓口にする → 物語を掴むきっかけを作るために

ピンチ展開のために準備をしておく → 作品にメリハリが付くために

 

踏まえた上で、ページ数を増やすのも一つの手段です。


異世界転生系って安心できるよね

 

大衆及び消費者は、流行に乗ります。
その点、異世界転生小説を書いたら確実に読んでもらえる安心感があります。


自分も、異世界転生系をやってみたらいいと思うんですけど、ほとんどジャンルとして開拓されており、内容が似たりよったりで飽和状態なのが嫌なんですよね。
異世界転生」=「既に耕された研究分野」の認識です。

有名どころの異世界転生系小説では、以下の名作が思いつきました。

 

1800年代中頃の「不思議の国のアリス

1800年代終わり頃の「15少年漂流記」

1900年代始めの「オズの魔法使い


異世界転生系はネットで流行ってますが、100年前にも流行ってるので、もう枯れた技術ですよね。
もちろん、主人公が環境に翻弄されることが保証されているので、流行るのもわかります。
みんながみんな、小説の手法として異世界転生を取り入れてるけど、100年前の作品と同じ流れにならないようにしないといけないですね。



さて、次の時代はどんな作品が流行るんでしょうか。
楽しみですね。