日日是好日

なんとなくでいいじゃん

未来の自分を描くために,今の自分に過去を教えてあげてから,しばらく経った頃の話

先日の旅から1カ月が経ってもなお,最終章を書き終えることができないから,息抜きにフラストを発散することにしました.

今日の日記は腹立つくらいスッカスカな内容なので,適当に読み飛ばしてくださいませ.

 

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これまでの私(過去の私)は、どうも表現に慎重になりすぎているようだった.

そもそも,「自己の表現」という言葉自体,「絆」や「努力」のような感動ポルノの一種と捉えていた.というよりも、そう思い込ませてきたのだろう。

だけど,「自己の表現」は,本質的な人間の営みなのだ.どんなに時代によって規制されようとも,脈々と時代を紡いできた,人間の本能的な意思なのである.

 

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今回,「創作」を「自己の表現」と同義と置いてみる.

1作品(誰が見ても恐れおののくようなものだ)を製作する,すなわち,慎重に感情を表すためには,集中力が必要だ.

それは,まさしくとても勇気のいることで,一筆書きを一発で達成することと同じくらい体力のいることだ.

だからこそ,伝書鳩を送り届けるような願いを込めて発信した情報は,消すこともできないし,どう文章が広まろうとも,じっと耐えるしかない.

 

じっと耐えるにも杭を深く打ち込まなければ,杭は流れに耐えられず,杭は倒れるか,流されるか,してしまう.

その一方で,現代でも広く読み継がれている作品たちは,時代の波に呑まれないような深い深い杭が打ち込まれているから,人々は共感することができるのである.

私は昔から、どうすればそんな作品が作れるか,すなわち、感情に負けないか,世間体に負けないかをずっと考えてきた.

 

創作の典型例に,小説や日記がある.まずは,これらを構成する「文章」について考察してみよう.

文章を書くときは,文章全体に責任能力を持たせないといけない.

文章全体に責任能力・統率力がなければ,単語は自由意志で,てんでばらばらに行動するようになり,組織を構成しなくなる.

そのためにも,自分を蔑みながら,精神を痛めつけながら文章を書く.

自分が書いた文章を否定しながら,嘲笑いながら,改善していく.

そうすれば自然と単語もまとまった意思を持つようになり,努力義務を感じてくれるのだ.

 

ここで,同様に「作曲」についても考察してみよう.(「文章」について考察した時とは,テーマの抽象度が違う.これは,自分の実力不足であり,申し訳ない.)

 

多くの人は,演奏はテクニックであることを知っている.そして,演奏家は芸術家と同じように,音楽を発展させる義務を背負う.また,有名な作曲家は過去の曲風を踏襲して,自己の曲作りに専念してきた.過去の演奏家から学んで,独自のテクニックを上乗せするから独自性が生まれるのである.

 

演奏会に行って,弾き手の苦労と人となりを想像しながら涙する.それは,もちろん演奏家のタッチに表れるからであり,人はそれを感じ取って涙する.しかし,その裏には,壮絶な過去を背負った作曲家たちの苦労があることも忘れてはならない.

演奏”者”が感情の赴くままに演奏することができるのは,楽譜が仕様書の役割を担ってくれているからである.

 

そういう意味で,コードの使い方次第で,作曲家は人の感情をもてあそぶことができるのだ.だからこそ,作曲家は演奏者の演奏にまで責任を持たなければならない.

残念ながら,自分はまだ曲を作れたとしても曲自体には責任を持たせられないと思う.

 

(もちろん,この発言自体,とーしろー目線であり,プロが相当な時間と労力を使って,細部においてまで自己鍛錬していることは百も承知である.)

 

以上からもわかるように、例えば,「三島由紀夫」だったり「泉鏡花」だったり、死後も読み継がれるような文章が、責任のある文章だと確信している。

しかし、先人たちがどんな意図でそのような文章を書いたのかわかりたくても、わかることはできない。

私は、信念の塊として、大義に真面目に、文章を書けたことがない。

残念ながら、書けるほどのものがほとんど欠落していることも知っている。
そんなだから、自分が文章を書いてはいけないと戒め続けてきた。

 

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しかし、表現能力は,人間に与えられた平等な権利なのだ.

でも,権利を行使しただけで,創作物に責任を持たせられない人がいるのも事実だ.

自分の作品に酔っている人もいれば,創作行為自体を認められない人もいる.そもそも,責任の所在に気付かない人が大多数なのかもしれない.

作品に責任を持たせられたとしても,体力がなければ表現できずに潰れてしまうだろう.

 

ちなみに,今日の日記は,あえて文章に責任を持たせていない.まるでスッカスカの安物のパンケーキのように。押し潰して体積を減らして、何も残らせるべきではない。


それは,今日の日記を「過去」に対するアンチテーゼにしているからに,ほかならない.

 

それは,言葉を炙り出しながら,煮込みながら,アクを取りながら,文章をまとめていないからである.感情の赴くままに,文章を書いており,自分を痛めつける儀式を行っていないからである.作品として仕上げるための,行程をあえて省いているのだ.精神的に成長したから行程をサボることができるようになったのだ.

 

 

自分を蔑み続けた長い時期を超えて,喜びをかみしめながら文章を書けるようになったのである.少しだけでも,過去の自分をいたわり,過去の自分を認められるようになったのである.

それだけで,文章は責任から逃れられ,肩の力を抜くことができるのだ.

 

文章は陳腐で安物でも、堂々としているだけで価値が生まれる。

 

p.s.

最初,こんな自分語りの文章を書くために,自分に1時間だけの猶予を与えてみた.

しかし,実際は,1時間経ったときに,ゴミ箱に捨てることをせず,3時間も費やすことができた.

こんな無責任な文章が今後は出ることはないだろうが,今回のように日の目を浴びることができるのは,むろんこれまで影響を与えてくれた全ての人々のおかげである.

 

そして,こんな独りよがりな,自慢げな文章を書く自分が大嫌いである.

同時に,こんなに自信満々に,臭い文章が書ける自分も大好きである.

 

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自分も読んでて吐き気するし,腹立つから,あんまりこういう文章書きたくないんですけどね...まぁ,たまにはこういう毛色の違った文章を書いてもいいのかなぁと思います.